1.はじめに

齊藤志郎氏とリレー連載してきたこの特集もいよいよ最終回である。今回は、「量子情報」とはやや毛色が異なるが、量子情報の研究から派生して生まれた新しい計算機、コヒーレントイジングマシン(CIM)について述べて、本特集を締めくくりたい。

2.組合せ最適化問題とイジングモデル

組合せ最適化問題は、多数の選択肢のうち、その最適な組合せを見つけ出す問題である。現代社会は組合せ最適化問題であふれている。無線ネットワークにおけるチャネル割り当ての最適化、宅配便トラックの最適ルートの探索、創薬の候補物質探索、これらは皆組合せ最適化問題である。これらの問題は、選択肢の数が多くなると、組合せの数が指数関数的に増大するため、従来のデジタル計算機が苦手とする問題といわれている。近年、組合せ最適化問題をイジングモデルと呼ばれる相互作用するスピンの理論モデルに変換し、その基底状態を求める問題をスピン的に振る舞う物理系を用いて実験で解く試みが盛んにおこなわれている。

3.CIM:光パラメトリック発振器を用いたイジングマシン

イジングモデルのハミルトニアンは次式で与えられる。

\(H =- \sum_{i < j}J_{ij}\sigma_{i}\sigma_{j}\)(1)

ここで、\(\sigma_{i}\)はi番目のスピン値であり、+1と-1をとりうる。Jijはi番目とj番目のスピン間の相互作用係数を表す。イジングモデルの基底状態探索とは、与えられた\(J_{ij}\)に対し、式(1)を最小にするスピン値の組合せ{\(\sigma_{i}\)}を求めることに相当する。

CIMは、光パラメトリック発振器(OPO)と呼ばれる光発振器を人工スピンとして用いてイジングモデルを模擬するものである[1]。CIMの概念図を図1に示す。OPOは、その発振時の位相が0またはπのいずれかのみをとるという特徴を持つので、位相0/πをスピン値+1/-1に対応付けることにより、数百THzの非常に高い周波数を持つ光発振器の位相状態を用いてイジングスピンを安定に表現することができる。

CIMにおけるスピン間相互作用Jijは、i番目のOPOの光をj番目のOPOに注入することで実装する。このとき、OPO間の経路長が、OPO出力光波長をλ、経路の屈折率をn、mを整数としてmλ/nとなる場合、注入同期現象によりOPOjはOPOiと同位相で発振しようとする。すなわち、強磁性結合的な効果をOPO間に与えることができる。同様に、経路長が(2m+1)λ/2nとなる場合は反強磁性的な結合を実装できる。このようにしてネットワーク化したOPO群は、全系の損失をもっとも小さくする(すなわち、式(1)を最小にする)位相の組合せで発振する確率が最も高くなる。これを利用して与えられたイジング問題の解探索を行うのがCIMである。

4.長距離ファイバ共振器と測定・フィードバックによる大規模CIM

 

CIMの原理に基づき大規模な組合せ最適化問題を解くには、まず多数のOPOが必要である。NTTでは、図2に示す系を用いてそれを実現している。この構成では、1kmの光ファイバと、位相0またはπの光を選択的に増幅する位相感応増幅器(PSA)と呼ばれる特殊な光増幅器を含む光ファイバ共振器を用い、PSAを1GHzの繰り返し周波数でオンオフすることで、1GHzの繰り返し周波数で時間多重された約5000個ものOPOパルス列を発生することができる。

数千のOPOパルス間に結合を実装するために、測定・フィードバックと呼ばれる手法を用いる(図2)。この手法では、OPOパルス列が共振器を周回する毎に、ビームスプリッタ—で全てのOPOパルスのエネルギーの一部を取り出し、コヒーレント検出器によりその振幅値{c〜i}を測定する。測定結果は、高速行列演算回路に入力される。本回路には、あらかじめ解きたいイジング問題に相当するスピン間結合行列{\(J_{ij}\)}が格納されており、ここで\(f_{i} =- \sum_{j=1}^{N}J_{ij}\tilde{c}_{j}\)に相当する行列演算を行うことで、所望のスピン間結合を実現するために次段におけるOPOiへのフィードバック信号\(f_{i}\)を得ることができる。この信号を、共振器中のOPOと同じ波長をもつ光パルスに重畳して、もとのOPOパルスに注入することで、OPOを結合する。NTTでは、本手法を用いて2048個のOPOパルス間の全結合を可能とするCIMを実現した。

図2 測定・フィードバックに基づくCIMの構成

5.CIMの評価実験

構築したCIMの評価のために、2000ノードの全結合スピンネットワークの基底状態の近似解探索を行い、計算時間をCPU上で実装した焼きなまし法(SA)と比較する実験を行った。厳密解は不明なので、精度保証のある近似アルゴリズム(GW-SDP)により得た解をイジングエネルギーの基準とし、この基準エネルギーに到達した時間を計算時間と定義した。実験結果を図3に示す。このように、CIMはSAに比して約50倍の速度で同程度の精度の解を得ることができた。

図3 CIMとSAの計算時間比較実験

6.おわりに

OPO発生のキー要素であるPSAは、前回の記事で紹介した「量子もつれ光子対発生」と同じ物理過程に基づいている。量子もつれ光子対発生の実験に従事してきた(そして煮詰まっていた?)筆者が、その装置を分解し光発振器に改造して始まったのが、4節で述べた「大規模OPOパルス群発生」実験である。このように、NTTにおけるCIMは「計算機を目指して」といった目的志向ではなく、脱線して始まった研究というのが正直なところである。

最近CIM装置はコンパクトな筺体に収められ、LASOLVという技術ブランド名で呼ばれるに至っている(図4)。今後も計算装置としていっそうの進化が期待されているが、原理には未解明な点が多く、基礎研究としても魅力的であると個人的に思っている。技術としての進展を誠実に進めつつ、時には変化することも恐れずに、今後も研究開発に励みたい。

図4 CIM装置「LASOLV」

[1] 武居、稲垣、稲葉、本庄、NTT技術ジャーナル 2017.5, 11.

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